2017年12月16日

「やすらぎのさとやま」

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(どこかの田舎と思いきや、鎌倉長谷の旧山本条太郎邸。谷戸を上手く利用した市中の山居です)

街へ出ると老人達を色々な場所で見かけます。商業施設や交通機関、若者よりも老人の方が多いのではないかと思います。レストランでは若者にも負けないような食事をし、金融機関のATMにも老人達の人だかりが。そして町の通りではパトカーをよく見かけした。

成程、今日は15日。今日見た風景がふと1本の線で繋がります。
昔は25日がサラリーマンの給料日で「物日」だったのですが、今は偶数月の15日、年金の支給日が「物日」なのです。老人パワー、恐るべしです。

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ちょっと前に放映されていた倉本聰作品の「やすらぎの郷」。
高齢者の入口にいる自分自身にも楽しい番組でした。老人たちが繰り広げる人間模様、決して他人事に思えないものがありました。
そして、主人公が発する現在のテレビ批判。というよりテレビ局批判でしょうか?鋭い切り口を感じました。確かに最近のテレビ番組やニュースには首をかしげるものが多くあるように思えます。

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(縁側からは由比ヶ浜の海が臨めます)

倉本作品はこのブログでも何回か取り上げていますが、もう二十数年前の作品の「ニングル」という話がありました。「ニングル」とは北海道に古くから住む小人で何百年も森の中で生き、人間の生活を見ながら警告を発するという話です。その中で「知らん権利。ほっとく義務」という話があります。

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(屋根はすこし湾曲をして、優雅な雰囲気がします)

「知る権利」、「知る権利」と他人の家へ土足で上がり込むような話を多くのカメラとマイクを向けている映像がマスメディアに流れています。しかし「ほっとく義務」もある、というものです。確かに当時も今もマスメディアの一部には「知る権利がある」という「建前」の社会正義を振りかざし、実は「報道局の視聴率を上げ、儲ける権利がある」というのが本音でしょうか?
報道する価値のないような些細なニュースが意識的に多く流される一方、多くの国民の生活に影響するようなニュースがかき消されるケースが多々あります。

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今はネット社会。ある組織の維持のためパブリシティを利用しても、人々が日常生活のちょっとした疑問から情報を探せば、成程と1本の線で繋がり、筋の通った理屈が見つかります。

さて、自分は「やすらぎのさとやま」の「ニングル」となって、「シニカル」というより「楽しみながら」生息しますか?

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2017年12月15日

加藤周一「日本のこころとかたち」

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(港南台の雲場池!)

加藤周一氏(大正8年〜平成20年)の「日本のこころとかたち」。
日本文化について他国と比較したり、歴史を振り返りながら解説しています。説明は日本文化の特徴に留まらず、なぜそういう文化的なものができたかも話が及びます。ただ単に「日本すごい」という日本文化礼賛ではなく、又「日本だめ」という日本文化批判でもなく、日本人の長所、短所を的確に説明をしています。(自身の最期はキリスト教の洗礼を受けて亡くなっています。)

その一つの集団主義。
「日本人は村共同体の上はない。共同体の利益が目的となっている」と説明します。欧米では神は絶対神ですが、日本は八百万の神です。仏教が伝来しても、日本風にアレンジし、神仏習合とします。絶対真理の追求というより、現世利益(共同体の利益)を重視するため、日本の神は共同体(村)の神になりえますが、世界の神にはなりえないと言います。
それらを西洋の彫刻や絵画、日本の仏像や浮世絵等を通して解説します。

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(港南台のもみじ)

そのような風土では、共同体の多数意見は正しく、少数派は誤りとします。議論を避け、共同体の和を重んじます。一方、欧米では多数意見が正しいとは限らないが、どちらかを決める場合は多数決という方法を採るだけで、もしかしたら少数意見が正しいかもしれないという立場を採ります。絶対なのは神だけであるという立場です。

その為日本では少数意見が成り立たず、方向転換がしづらい。共同体において一度意思決定された場合、破局的最後になるまで方向転換ができないと言います。

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(光と影)

今でも忘れられない忌まわしい昔の事故。
丹沢の川原で会社の仲間とキャンプをしていた数家族。雨が降り出し、川が増水し始めますが、誰一人として川の中州から逃げようせず、子供を含む多くの人が水に流されて亡くなったというもの。自分の家族だけがキャンプを止めて帰ると言えなかった集団の雰囲気。

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5.15事件で暗殺された犬養毅首相。
世間的には「話せばわかる」と言って、青年将校に撃たれたとされていますが、犬養氏の孫の著書によれば、「話をきこう」だったといいます。「話せばわかる」という言葉には、「相手を説得する」という意味がありますが、「話をきこう」には「あなたの意見の方が正しいかもしれない」という意味も感じます。当時の報道の位置関係を考えると、何故そのように報じられたかわかるような気がします。

日本文化、風習、そして風景等、今まで当たり前と思っていた深層に流れるものを感じることで新たな一面が浮かんできます。

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2017年12月10日

伝統工芸とAI社会

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(修善寺のもみじ林)

伝統工芸が作られるビデオを見ました。ここでいう伝統工芸とは民芸品であり、実際の生活の中で利用されるものをいいます。いわゆる芸術品、美術品といわれる美術館などで展示されることが目的ではないものです。

実際に使われることが目的ですから、そのものが使いやすく、ある程度量産されるものを指します。量産されますから、決して有名な達人が作るものではなく、多くの職人が分業しながら造られます。

協同作業ですから、各職人は他の職人からの信頼を失わないように「手を入れ」「手間をかけ」自分の納得するものを作っていきます。

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(山の方は紅葉のピークは過ぎ、落ち葉がきれいです)

例えば「京友禅」。
我々一般の人には「きもの」を着ている女性の姿しか印象しかありませんが、そこへ至るまでの工程は、多くの職人たちの作業を経ています。各職人はいい仕事をしようと道具にこだわり、色々な種類の道具、更には自分なりの道具を作成しています。

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しかしながら、将来このような伝統工芸はAIやらロボットに置き換わってしまうのでしょうか?技術的な細かいことは分かりませんが、消費者がその商品の細かい差異がわからないなら、いや今後の技術の発展によりそんな差異も埋めてしまうのかもしれません。将棋においてAIがプロ棋士を打ち破った記事を見て、そんな風に想像してしまいます。

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美しい、楽しいという主観的な感情は、その作品の外見的なものだけでなく、その作品の背景に秘められた思いを感じることにより生まれるものです。そこの部分だけはAI、ロボットによる作品には感じられず、感動(こんなものもできるようになったのかという当初の驚きを別として)という満足感はないと思います。

(閑話休題)

ふと、思い出した昔のマンガ。
手塚治虫の「火の鳥」。未来の世の中で「人間に姿を変えた無定形生物・ムーピーのタマミ」
それは主人公の心の中の喜びや悲しみを読み取ることが出来、刹那的な夢をみせることができるというものだったと思います。

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今、苦し紛れにAIにできないことは何かと書いていましたが、「ムービー」が生まれたら人にできることとは・・・?と考え込んでしまいました。

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2017年12月09日

心理会計(行動経済学)

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(修禅寺の紅葉)

自分の好きな作家、倉本聰の「優しい時間」というテレビドラマがありました。北海道へ移住した主人公が「森の時計」という喫茶店を開き、そこへ訪れる人々の様々な人生ドラマを描いたものです。その「森の時計」という喫茶店の決まり事は、コーヒーを注文した者は、自分でコーヒー豆をミルで引かなければならないというものでした。

兎角最近は手間を省く方向です。面倒くさいものは他の人へお願いし解決する、効率よく目的のもの(この場合はコーヒーを飲むという行為)を手に入れようとする方向です。

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(この時期は秋の長い影と紅葉がいいものです)

しかし、本来コーヒーを飲むという行為が目的ではなく、嗜好品などは「自分の幸福感」を得ることが目的なはずです。この作者はそこへの過程というものが重要であり、手間をかけることにより、気持ちがその方へ向かう幸福感を説いているように思います。今日、経済的に豊かになり、食うに困る時代(生活に困るとは別)が過ぎ、人々の生活の幸福感は何かを説いているように思えます。


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日本の伝統工芸に見られるように、工芸品(例えば着物等)が美しいという結果だけではなく、そこへ至るまでの人々の手間、手入れの大変さが分かることで、その有難み(まさしく、なかなか有り難きこと)を身に沁みて感じてこそ、幸福感を得られるものです。今はやりの「行動経済学」のいう「心理会計」というものでしょうか?

手前味噌ですが、自分自身が野菜を作るようになって、野菜を作るための大変さ、手を入れること、それによる思い入れの熟成が、野菜を食した時の幸福感へ繋がっています。ジャガイモ3つが100円という市場価値が重要ではないのです。

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(修禅寺の窓に映る紅葉)

さて、
将来「AI」が もたらす社会がどのようなものか、いろいろな方面で取り上げられています。ただ結果(成果)だけを求めるなら、人々の労働で得られる結果(成果)より経済合理性のあるものをAIにより人類は得ることが出来るかもしれません。しかし、そのことが人々(60年近く生きてきた自分)にとって、幸福な社会になるかどうかは別のように思えるのです。

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(竹林の道)

日本の文化には「道」が付くものが多くあります。「道」という意味の中に、ただ単にその行為が上手くなるという結果だけではなく、そこへ目指すという過程の中に、その人の生き方や価値観を重視するという意味だと思います。

もし、AI社会において多くの職業が奪われるということが本当なら、人が行うべき仕事とはその作業を通じて得られた感情、満足感を伝えることなのでしょう。

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(その昔、中2の頃に一人修禅寺へ行き、たまたま井上靖のしろばんばの撮影をこの鐘楼でしていたことを思い出しました。しかし思い出のイメージとは異なっていました。)
posted by 田舎おやじ at 09:57| Comment(0) | 日々雑感

2017年11月24日

遊び心

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今、横浜の三渓園では紅葉が見頃です。それに合わせ、重要文化財の春草蘆と聴秋閣の特別公開がありました。

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【聴秋閣裏の散歩道】

「茶の湯」のにわか知識を携えて、一人春草蘆へ足を運びます。
春草蘆は入口から2手に分かれた飛び石が並びます。(下記のHPを参照)

(三渓園HP)
http://www.sankeien.or.jp/kokenchiku/shunsouro.html

左は茶室の躙り口があります。一方、右は広い茶室の縁側的な方へ向かいます。にわか知識で左に向い、躙り口から茶室の内部を覗きます。暗い室内は多くの障子の窓があり、落ち着く雰囲気があります。

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【春草蘆の内部】

家の建築業者のCMで、「天井の高い家っていいよな。・・・本当は狭くて低い所が好きなくせに・・・」というのがありましたが、まさしく、究極な狭さの室内です。しかし、その限られた空間で交わされる会話は集中力が増し、濃厚な時間が流れていそうです。

そして、右の方の飛び石へ進み、広い茶室内を覗きました。

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【春草蘆の内部】

さて、そこを見終わり、飛び石を渡って元に戻ると、何人かの見物客を連れ立った年配のガイド様が筆者の行為を見ながら大きな声で「こちらの飛び石を歩くことは間違いです」と自分の見物客へ威厳高々と説明します。こちらは大いに恥を感じながら、振り返ります。しかし、飛び石の途中には手水もあり、飛び石の先には沓脱石もあります。

そのガイド様は「こちらの飛び石は上部が平らではない。雪駄とかは歩きづらい。だから入ってはいけない」とこちらを見ずに自分の客へ大きな声!でルールを説明します。

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確かに左へ行く飛び石は、上部が平らです。
しかしです。しかしながらです。にわか知識を頭の片隅から引っ張り出して、それなら止め石があるはずじゃないか!心の中で叫びます。

折角、日本文化のごく一部を齧り始めて勉強しようと思っている矢先の事件。やる気がなくなる。だからこまごまとしたルールがある茶の湯は難しい。しかしこの年ですから恥はすぐ忘れてしまいます。

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【暗い部屋では襖の模様が光ります 聴秋閣内部】

さて、「では何故、あの飛び石があるのか?」と考えます。
以下へ意固地な初老老人の戯言です

この三渓園の創設者の原三渓は、元々岐阜県柳津(佐波村)の出身。明治以降横浜で事業に成功した原家へ婿(入籍)として入ります。三渓(富太郎)は事業の才覚を発揮し、生糸で更に財産を築きます。事業だけに留まらず、維新後、洋化を目指した明治時代の中で、伝統的な日本文化の若手の担い手への援助、自らの館の庭を一般公開するなど、横浜において文化的に貢献した人です。三渓記念館では自身の描いた絵や、墨蹟もあり、故郷(岐阜)への想い、それは景色や親への想いが伝わります。

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【どこか懐かしい風景です】

これはかってな解釈ですが、三渓自身は日本文化というものを堅苦しく考えず、限られた人だけでなく、どんな人でも自分なりに、考え、想い、表わすことが大切と思っていたように思います。ルールなど拘らず、自分なりに表現すること。


さて、そこで先ほどの右への飛び石についてです。
茶の湯で客人を茶室へ案内する時に使う「止め石」は使わずに、どう表現するか?それを「遊び心」で無駄な飛び石や手水を置き、雪駄では歩きづらい右へは向かわせない。「遊び心」で謎かけのように配置したのでしょうか?縄文時代の火焔土器のように、全く器としての機能には不必要な装飾を作り出すという「遊び心」の文化です。

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【茶会の準備が行われていた臨春閣】

真偽はともかく、その様にそれぞれが想像する「遊び心」という文化を作庭者は期待していたのではないでしょうか?自分で自分なりに考えること、AIの判断だけにゆだねる世の中は決して面白くありません。、自分で考え判断しなくなった人類は犬!以下なってしまうのでしょうか?(いや、犬だって考えて行動しています)



posted by 田舎おやじ at 22:24| Comment(0) | 日々雑感